襟川陽一えりかわよういち
最終更新:2016-01-12
コーエーテクモホールディングス株式会社
代表取締役社長 - 1950年 / 栃木県出身
1950年、栃木県生まれ。県立足利高等学校から、慶應義塾大学商学部に進学。大学時代は、「K.B.R. society the KALUA」(カルア)というジャズボーカルバンドサークルに所属し、ベーシストとして音楽活動に明け暮れた。大学卒業後、染料の卸販売会社を経営する父の会社の取引先に就職。約4年半の勤務後、父から呼び戻され、家業に入社する。しかし、その3カ月後、父の会社が倒産。残務整理を続ける中で、染料卸販売事業の再起を決断。1978年、光栄を設立し、代表取締役に就任する。1981年、趣味としてつくった歴史シミュレーションゲーム「川中島の合戦」が、予想を超える大ヒットとなり、光栄はゲームソフト制作会社の歴史を紡ぎ始める。その後も、「信長の野望」「蒼き狼と白き牝鹿」「三國志」「決戦」「真・三國無双」など、数々のヒット作品を世に送り出し、日本を代表するゲームソフト制作会社に成長した。1991年、店頭市場に株式公開(現在は東証一部)。1999年、コーエーの取締役会長就任。2005年、コーエーのファウンダー取締役最高顧問に就任。2008年、コーエーはテクモとの経営統合を行い、コーエーテクモホールディングスが誕生。2010年11月、同社の代表取締役社長に就任。ゲームプロデューサー名は「シブサワ・コウ」。
(http://case.dreamgate.gr.jp/mbl_t/id=1107より)
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InterviewWatch 登録日: 2016/01/12
「川中島の合戦」「信長の野望」「蒼き狼と白き牡鹿」「三國志」「決戦」「真・三國無双」など、数々のヒット作品を世に送り出し、日本を代表するゲームソフト制作会社に成長したコーエー。そのスタートは、1978年に栃木県足利市で産声を上げた、染料卸販売会社だった。現在はテクモと経営統合をし、コーエーテクモホールディングスとなった同社だが、創業者である襟川陽一氏は、いかにしてこの事業を始めることになったのか……。「事業計画などまったくなく、まさに、ひょうたんから駒のような成功でしたが、これからコンピュータがどんどん世の中に浸透していくことは容易に予想できました。そんな時代背景もあって、コーエーは染料販売事業から撤退し、完全にゲームソフト制作事業に移行したのです」。今回はそんな襟川氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

数々のヒット作品を世に送り出し、日本を代表するゲームソフト制作会社に成長したコーエーの創業者である襟川氏の幼少時代から、現在(取材時)に至るまで、人生の軌跡をまとめたかたちのインタビュー。
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