涌井 徹わくいとおる
最終更新:2015-10-08
株式会社大潟村あきたこまち生産者協会
代表取締役 - 1948年 / 新潟県出身
1948年、新潟県生まれ。人口密集地としては世界一といわれる豪雪地域、十日町市の米づくり農家の長男として生を受ける。新潟県立十日町高校卒業後、同 県立農業教育センターに専攻生として入学し、1年間で卒業。その後3年間、出稼ぎを続けながら地元での農地拡大を計画するが、1970年、家族とともに秋 田県の大潟村に入植。しかし同年から、生産調整政策、いわゆる減反政策がスタート。1987年、仲間とともに大潟村あきたこまち生産者協会を設立し、その 後、代表取締役に就任。米の個人向け通信販売を続け、無洗米や特定の栄養素を付加した米の栄養機能食品などを多数開発。外食チェーン、公的機関など、業務 用向けの販売にも進出し、大手スーパーなどにも販路が広がっている。現在、生産、加工、流通までを手掛け、日本で初めての「農業発の一流食品メーカー」を 目指し、将来の株式上場も視野に入れている。著書に、『農業は有望ビジネスである!~新たな高付加価値産業になる時代』(東洋経済新報社)がある。
(http://case.dreamgate.gr.jp/mbl_t/id=808より)
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InterviewWatch 登録日: 2015/10/08
1970年から始まった生産調整政策。いわゆる減反政策である。これにより、米作農家は自分の田んぼに自由に米をつくる権利をはく奪された。かつて琵琶湖の次に大きな湖だった秋田県の八郎潟を干拓してでき上がった広大な農地、大潟村。減反政策が始まった年に、涌井徹氏は、家族とともにこの地に入植してきた。新潟県の1.3ヘクタールの田んぼと生家を売り払い、10ヘクタールの広大な田んぼで思い切り稲作を行うために、だ。そして、彼の闘争の日々が始まる。国、県、農協、権力を持った組織からの攻撃は半端なものではなかった。しかし、涌井氏は自分の信念、「米をつくる自由」「米を売る自由」という権利を獲得するために、一度たりとも攻撃に屈することはなかった。そして、「ヤミ米派」というレッテルをはがすことに成功し、氏が代表を務める「大潟村あきたこまち生産者協会」は、今では新しい農業経営のモデル」とさえ言われるまでになった。「60歳を超えて、もうひとつ。生きてきた証を残したいと考えていたのですが、大きな夢が見つかりました」と語ってくれた涌井氏。今回は、そんな涌井氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

「60歳を超えて、もうひとつ。生きてきた証を残したいと考えていたのですが、大きな夢が見つかりました」と語ってくれた涌井氏の幼少時代から、現在(取材時)に至るまで、人生の軌跡をまとめたかたちのインタビュー。
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